BCネットワークは,アメリカ認定の非営利団体です。 日米両国に在住の日本人女性達に乳がんに関する最新の情報 、乳がん治療後の生活の取り組み、乳がん早期発見、 啓発情報発信を押し進めていく非営利団体です。 Knowledge is power.  正しい知識は患者自身の力、支えになると信じて活動しています

“I will never turn back, because tomorrow is waiting for me.”
明日が待っているから、もう後ろは振り向かない 2012年1月

Patient Story・患者ストーリー(第2弾)
Ms. Y.T. さん
日本在住公務員

Y.T.サンの乳がんのプロフィール
・年齢    : ..48歳(1963年7月生まれ、蟹座) 
・発症等の時期:2011年8月発見、同年9月がん告知、同年10月左乳房切除+同時再建。
・病理検査結果:ステージⅠ(1.6センチの浸潤がんと非浸潤がんが乳管内に6.9センチ伸展)、
....ホルモン受容体 陽性(99%)、HER2 陰性、核異型度 グレード1、リンパ節転移なし。
・家族の病歴:両祖父母、父母ともに、乳がんを含むがんの罹患歴なし。
・術後薬物療法:ホルモン療法(5年間のタモキシフェンの経口と2年間のリュープリンの注射を
 2011年11月より開始)

2011年8月、私は、偶然自宅で、自分の左胸の下側に小さなしこりを見つけました。その瞬間、「まさか、これは何かの間違いだろう。」と驚きました。そして、これはきっと女性ホルモンの周期に関係した一時的な現象に違いない、という強い期待を持ちました。そして、ある日、朝目覚めたら、このしこりは消えているかもしれない、そう願い続けました。しかし、何日たっても、やはりそのしこりは、同じところにありました。私の乳がん患者ストーリーが始まりました。

私は、がんに関して、決して意識が低かったわけではありません。20代の頃から、年一回ほぼ欠かさず、職場が実施する乳がん検診(30代までは超音波検査、40代からはマンモグラフィー検査)を受けていました。この年も1月に受けた検診で、「異常なし」という結果が出て、とりあえず、次の検診までの一年間は安心と思っていたところでした。

この年の春、日本では「仁」というテレビドラマが人気になりました。ある事件をきっかけに江戸時代にタイムスリップしてしまった現代の脳外科医、南方仁が、満足な医療器具や設備もない中で、人々の命を救ったり、その医術を通して坂本龍馬などの歴史上の人物と交流を深めながら、自らも幕末の動乱に巻き込まれていくという壮大な物語でした。
そのドラマの登場人物で、吉原の花魁だった野風が、乳がんになり、南方の摘出手術を受けましたが、残念ながら再発してしまいます。彼女は生まれてくる子供の母親として生きていく道を選択し、再手術を受けることを拒みました。
そして、私は、なぜだかこの野風に何か強く感じるところがあり、気になりながら、ドラマを見ていました。今思えば、自分の身にやがて起きる出来事を、このドラマが暗示していたのかもしれません。

しこりの発見以来、心配で仕事も手につかなくなってしまった私は、いてもたってもいられず、まず、自分が住んでいる沿線にある乳がんの検査ができる病院をインターネットで検索しました。条件としては、マンモグラフィー検査ができる、そして、女医さんがいる病院がいいと思いました。検索の結果、電車で10分ほどの駅に、最近開業した「乳腺外科」クリニックがあることがわかりました。残念ながら女医ではありませんでしたが、クリニックのサイトを見るかぎり、院長はやさしそうな40代前半の若い男性医師で、医師以外のスタッフは全て女性、最新の検査施設も充実しているとのことだったので、早速、電話して予約をとり、8月22日、このクリニックを受診しました。

ある情報によると、集団検診で1000人の女性がマンモグラフィー検査を受けた場合、再検査となるのが93人、その中で、本当に乳がんなのは3人だけ、つまり乳がんと診断されるのは、わずか3%の確率ということでした。(参考:NHKためしてガッテン(2011/7/8放送)乳がん検診にまつわる数字トリック)。私はくじ運が悪いので、まさか自分がそのわずかな確率に当たるはずなんかない。なぜなら、毎年受けている検診でずっと異常なしだったのだから・・・。そう信じたい気持ちでいっぱいでした。 

私が訪れたクリニックは、横浜市唯一の乳腺外科・乳腺科の専門クリニックと紹介されていました。私にとって「乳腺外科」というのは、初めて聞く診療科の名前です。女性の病気といえば、産科・婦人科がまず頭に浮かぶところですが、果たして、このクリニックの選択で正しいのかどうか、自信がありませんでした。しかし、このクリニックのサイトに、これまで来院した患者さんからの声が多数紹介されており、それを読んだところ、このクリニックに対して良い印象を持ったので、きっと大丈夫だと確信しました。

クリニックで初診の受付を済ませ、診察前にマンモグラフィー検査を受けました。マンモグラフィー検査は、何回も受けたことがありますが、技師の腕や、当日の体調次第でひどく痛い思いをした経験があったため、また痛いのはいやだなぁと思いました。そんな私の気持ちを察してか、女性技師さんは、度々やさしく声をかけて下さり、腕も良かったので、ほとんど苦痛がありませんでした。

検査結果は当日中にわかるというので、しばらく待合室で待ちました。その間、たくさんの女性が乳がん検診のためこのクリニックを訪れていました。最近は、40歳になると5年おきに自治体から無料の乳がん検診のクーポンが女性に届くようになっていると聞いたことがあります。このクリニックは横浜市の乳がん検診の指定病院になっています。
一時間ほどして名前が呼ばれました。診察室には、やさしそうなK院長がおり、私のマンモグラフィーの写真が広げられていました。そしてその結果は、「疑わしいものは、写っていない。」ということでした。私の場合、出産・授乳の経験がないせいなのか、乳腺が真っ白に写ってしまうと、以前から検診時に指摘されていましたが、やはり今回も真っ白でした。この中から白い物体を見つけるのは、雪の中で白いうさぎを見つけるようなものかもしれません。
この結果を聞いて一瞬は安心したものの、触診で確認できるしこりがあるので、次に超音波検査を受けることになりました。

診察ベッドに横になり、院長と一緒にモニター画面を見ながら、両方の胸をゆっくりと、少しずつ調べていきました。驚いたのは、問題のしこり以外に、それも両方の胸に、複数の袋状の腫瘍が発見されたことです。しかし院長の説明では、そのほとんどが顔つきがよい丸い形をした「のう胞」といわれる良性のもので、悲しいことに、加齢によって増えていくものらしく、また生理の周期によって、生まれたり、消えたりすることもあるとのことでした。
そして、いよいよ問題のしこりに達した時、私は画面に映ったその姿を見て、「もうだめだ。これはがん確定だ!」と思いました。なぜなら、画面に映った黒いかたまりは、これまで確認したのう胞とは明らかに違う形をしていました。中心の腫瘍部分からいくつも角のようなものが出ており、形もいびつで細長く、丸くありませんでした。この形を表現するのに英語の「キャンサー(蟹)」という言葉が、まさにぴったりだと思いました。

院長は、冷静に、これは疑わしい腫瘍なので、更に細胞検査をしましょうとおっしゃいました。そして、もし心の準備ができていないのならば、後日、出直してもいいとのことでしたが、早く白黒をはっきりさせたかったので、引き続き検査をお願いしました。良性と思われる腫瘍については穿刺吸引細胞診、疑わしい腫瘍については針生検を受けました。初めて見る器具や長い針のついた注射器を見て、私は恐怖でいっぱいになりました。でも、ここまで来てしまったのだから、覚悟を決めるしかないと観念しました。
細胞診は麻酔をしないため、針が胸に刺さっている時、鋭い痛みがありましたが、針生検の方は、針が太かった割には、麻酔のおかげで痛みがなく、院長と一緒に画面に映った腫瘍を見ながら、針先が細胞を採取する様子を、興味深く観察しました。
 院長から「こんな小さいしこりを自分で見つけて偉かった。」と褒められましたが、たとえ早期発見だとしても、自分にとっては、がんの疑いがあることには変わりなく、複雑な気持ちになりました。

細胞検査の結果については、運悪く乳癌学会の時期と重なっていたため、2週間後になると言われました。そんなに待つのはツラすぎると思いましたが、万が一検査の結果が黒と出た場合は、きっとこのやさしい院長なら、2週間を待たずに、私の自宅あてに、そして次は家族と一緒に来院するように、電話してくるだろうと勝手に思っていました。(結局、そのような電話はありませんでした。)

「がんの告知」、それはドラマティックなものではありませんでした。突然突きつけられた厳しい現実に呆然と立ち尽くし、なぜ自分がこんなひどい目にあうのかと、怒りがこみ上げてきました。9月5日、私は院長から、「残念ですが悪い結果がでました。乳がんです。手術を受けて下さい。」と告知を受けました。がんではないかもしれないと、わずかな期待がありましたが、その瞬間、私の心臓はバクバクし始めました。
ひととおり検査の結果を聞いた後、このクリニックでは手術ができないため、検査や手術の施設がある大学病院等に転院する必要があること、そして、もし希望の病院や医師がいたら紹介状を書いて下さると、院長はおっしゃいました。私はこれまで大きな病気にかかったことがないので、どこに、どんな大学病院があるのかさえ知りませんでした。ただ、院長がクリニック開設前に川崎にある大学病院に勤務されていたこと、その病院が年間、相当数の乳がん手術の実績があること、そして、その病院には乳がんに関する著書が多数あるF先生という有名なお医者様がいるという記憶があったので、それでは、 StM大学病院のF先生はどうでしょうかと聞いてみました。すると、F先生は、残念ながら現在はもう手術はしていないとのことでしたが、その病院であれば、乳腺外科部長のT先生が良いでしょうということで、早速、T先生あてに紹介状を書いて下さいました。

その時、私にとって救いだったのは、私のがんは2センチ以下の初期のがんで、顔つきも良く、ホルモンの感受性も高いので、乳房温存と術後は放射線治療でいけるでしょうという院長の言葉でした。私も、手術で胸の形が多少、変わってしまうかもしれないけれど、早期発見のおかげで命は助かり、胸も残せるのだから良かったのだ、と失望と希望が入り混じった気持ちになりました。
診察室を出たら、専門の看護師さんがカウンセリングルームで、乳がんになった人向けのしおりをくれ、今後の治療方法について説明してくれました。やさしく声をかけてもらうと、どんどん涙が出てきました。そして、最後に看護師さんが、「早まって、絶対に仕事を辞めてはいけないですよ。乳がんは治る病気ですから。」と言ってくれたのが印象的でした。その日の帰り道、いつもと景色が違って見えました。電車の中でも涙がこらえられず、泣きながら家に帰りました。一番初めに母親に電話をし、その次に夫にメールをしました。

それからは、一人になると切なくなり、泣いてばかりいました。ちょうど、遅めの夏休みをとっていた最中だったので、休みの期間に精神状態を立てなおそうと考えていました。
まさか自分がこんなことになるとは思っていなかったので、告知を受けた翌々日から、友達のA子さんと飛騨高山方面に旅行に行く計画を立てていました。内心、こんな状態で旅行に行っても楽しめないのではと思いましたが、家に一人でいるのも精神上、良くないので、予定通り旅行に行くことにしました。
A子さんとは役所の同期でもう25年以上のつきあいになります。今回も私のことをとても心配してくれて、私の検査結果を聞いた時はショックを受けたようでした。往路の移動のバスの中では、なるべく病気のことに触れないように、一生懸命私に話しかけてくれて、気を使ってくれているのがよくわかりました。
夕方、一緒に温泉に入りました。私は、今度、温泉に来る時は、私の左胸はどうなっているんだろう。形が変わってしまって、これが最後の温泉になるのかもしれないと、余計なことを考えてしまい、また切なくなってしまいました。
でも、気のおけない友達と一緒に素晴らしい景色の中を散策し、温泉につかって、おいしいものを食べて、少しの間ですが、乳がんのことを忘れて、夜もぐっすり眠れたので、旅行に来て良かったと思いました。でも、横浜の自宅に帰ったら、厳しいがんとの闘いという現実の世界が待っていました。

夏休みも終わり、9月12日、紹介状を持って大学病院に転院しました。あいにくT先生は海外出張中で、代理で若い医師が術前の一連の検査の予約をとってくれました。その後は、手術を前提とした様々な検査が続き、緊張もしたので、心身ともにだんだん本当の病人のようになっていきました。

9月21日、大型台風が関東を襲った日、T先生に初めて会いました。一連の術前検査の結果が出て、ショックなことに、私の乳がんは左側にひとつだけでなく、他にもあるらしいことが判明し、再び細胞診と針生検を受けることになりました。病理検査の結果が判るのは、さらに2週間後、手術日は、1ヶ月後の10月20日に決まりました。
そして、T先生より、今回の細胞検査の結果次第では、これまで全く想定外だった乳房切除(全摘)の可能性を提示され、ショックで私の両目は涙で溢れてきてしまいました。もう先生の話も頭に入らなくなり、その後、私は意味不明なことを一生懸命、質問していたような気がします。
また、今回の細胞検査では、腫瘍が注射針の届きにくい場所にあったようで、前回クリニックで受けた検査より痛みがひどく、大人なのに泣いてしまいました。その日は、どうにかタクシーに乗って家に帰りました。

その後しばらくの間、私の精神状態はどん底になりました。浸潤がんの方は、しこりが手に触れるので、これはがんだと言われれば納得できますが、後で知らされた方のがんは、この病院が開発したという高分解能MRIの写真に砂粒のような点々が白く写っているだけで、しこりもないので、病巣が左胸の上方に広範囲に伸展していると説明されても、受け入れることが困難でした。

私は、事前の調べで、ひとつの胸に2つ以上腫瘍がある場合、そして病巣が広い場合は、全摘が望ましいとされていることは知っていましたが、まさか自分が全摘の対象となるとは、夢にも思っていませんでした。女性なら、誰しも、自分の胸を残したいと考えるのが普通です。なぜならば、二つの胸は、この世に生まれてから、これまで一緒に生きてきて、ずっと自分の一部だったからです。私はカッコいいとは言えないけれど、自分の白くて柔らかい胸が好きでした。恋をした時は一緒にキュンとときめいて、叱られた時は一緒にシュンっとして、苦しかった時は一緒にキューっと締め付けられるような思いを共有してきました。

病理検査の結果を待つ2週間は私にとって、ひどく辛く、長いものでした。乳房を失うかもしれないという切なさで、押しつぶされそうでした。仕事に行っても集中できるはずもなく、席に座っていても突然涙が溢れてきて、感情のコントロールができなくなり参りました。私の様子を心配してくれた友達が、昼休みにランチに誘ってくれ、話をたくさん聞いてもらったことで、だいぶ救われました。A friend in need is a friend indeed.

この時期は、家で一人になると、がんのことばかりを考えてしまい、気がつくとパソコンで「乳がん」と情報検索をしていました。乳がんに関する書籍もAmazonで次から次へと大量に注文、購入しました。
週末明け、そろそろ落ち着いた頃だろうと過信して出勤してみたところ、化粧室で鏡を見たら、左白目から突然出血したらしく、目全体が鮮血で真っ赤になっていました。眼科医から、状況からしてストレスの極限状態にあるためではないかと診断され、仕事を早退して、初めに受診した乳腺クリニックの院長を訪ねてみました。
院長は診察外の時間だったのにかかわらず、30分以上かけて丁寧にカウンセリングをして下さいました。その結果、ようやく私は、自分に起こっている事態を理解し、受け入れ、そして立ち直ることができました。

10月5日、細胞検査の結果が出て、T先生より、やはり私のがんは、当初の診断の浸潤がんがひとつだけではなく、同じ左の胸の乳頭上方に非浸潤がんが広く伸展していると告げられました。乳房温存を含む複数の術式の提案を受けましたが、私は再発のリスクの軽減と美容的な観点から判断して、「乳房切除(全摘)」、そして「同時再建」をお願いしました。
不思議とその日は、もう涙は出ませんでした。そして、この日を境に何かが吹っ切れて、もう「何でも来なさい。」という気持ちに変わっていました。こうなったら、T先生を信じてついて行くしかありません。落ち込んでばかりはいられない。人間は前に進まなければいけないんだ。私はがんなんかに負けない。自分が、少し強くなったと感じました。

10月20日、がん摘出の手術が終った時、私の左の胸の中にはエキスパンダーが挿入されており、既に手術前と同じ位の大きさの膨みがありました。乳頭も希望通り温存していただいていました。傷跡は、脇の下から10センチ程度ですが、胸のふくらみに隠れていているため、鏡を使わないと自分では見えないところにあります。
そのため、私は全摘手術を受けたのにもかかわらず、乳房の喪失感や、ダメージが比較的少なくて済んでいます。来年6月にエキスパンダーをシリコンに入れ替える手術を受ける予定ですが、その時も今回の手術の時の傷を使えば、新たに傷が増える心配はないと聞いています。

しかし、手術の直後は、手術した側の左胸が腫れて皮膚も黄色や紫に変色していたので、恐ろしくて、胸や傷跡を正視することができませんでした。退院した日から全身シャワーの許可が出ていましたが、手術をした胸を一人で(病院では医師や看護師さんがいました。)見る勇気がなく、浴室に行くこともできませんでした。そしてその後もしばらくの間は、変わってしまった自分の胸とテープが貼られた傷跡を見ると、がんになってしまった自分を自覚させられ、時々、切ない気持ちになりました。
現在は、傷跡をきれいに治すために、形成外科から処方された紙テープを定期的に張り替えていますが、さすがにもう慣れました。

私の左胸に挿入されているエキスパンダーは、手術後に追加で何度か生理食塩水の注入を受けた結果、元の胸よりも大きく、丸く、そして固くなりました。常にプラスチック製の人工物が入っているという違和感があり、寝る時は胸が自然に流れることがなくて、重たいお椀が胸板に載っかっているような状態で、皮膚の突っ張り感もあり、寝返りを打つこともできません。そのため、夜中に何度も目が覚めて、朝までぐっすり眠ることができず、睡眠導入剤のお世話になっています。
健康な時は、胸はふたつあって当たり前で、普段その存在を意識しなくて済んだのに、今は、朝起きてから寝るまで、そして、寝ている間も、再建中の左胸のことを気にしています。

約半年後に、エキスパンダーをシリコンに入れ替える手術を受ける予定で、それまでにエキスパンダーを生理食塩水でふくらませ、左胸の皮膚を十分に伸ばす必要があるため、再建中の左胸が、健側の右胸に比べて相当、大きい状態になっています。その結果、左右の骨格のバランスが次第におかしくなり、肩こり、頭痛、腰痛に悩まされるようになりました。更に、大きくなった左胸が恥ずかしくて、かばうように背中を丸めて歩いていたせいで、姿勢も悪くなっていました。
その後、悩んだ末、乳がん患者専用の下着を取り扱う銀座にあるサロンを訪ね、プロの方にカウンセリングとフィッティングをお願いし、左右の胸のアンバランスを矯正していただいたところ、この問題はようやく解決しました。
たとえ数百グラムの差であっても、長年馴染んだ左右の胸のバランスが崩れるのは、体に影響があることを実感しました。

私の直近のゴール(目標)は、6月初旬の乳房再建の完了(シリコン・インプラントへの入れ替え)です。人工物を使用する限り、手術の前と同じ、柔らかく温かい乳房を取り戻すことは不可能で、乳房の形や乳頭の位置も、ある程度のレベルで妥協しなければならないことは理解しているつもりです。しかし、手術まであと約6ヶ月もあるためか、ついつい余計なことを考えてしまい、再建のモチベーションを維持することは、意外と大変です。でも、がんばります。

ところで、手術でガンをきれいに取り去ってもらったので、さぁこれで一安心と思っていた矢先、実は、乳がんは「全身の病」であり、一度がんが浸潤していれば、そのがん細胞が既に全身に微小転移している可能性があるという事実を知りました。その後、肺転移が見つかり、現在化学療法中の患者さんに実際に会ったりもしたので、私は、再発と転移という恐怖に取りつかれてしまい、精神的に、かなり落ちこんでしまいました。
手術を受けることが、治療のゴールだと思っていたのに、実は、乳がんが転移した場合、現代の医療では根治は望めず、進行を遅らせること、つまり延命しかできないという事実、それを受け入れることは、私にとって辛すぎる現実でした。

しかし、その後、乳がんに関するサイトや書籍等で、再発や転移についての情報収集を行う一方で、患者会やセミナー等にも参加して、医療関係者やサポートグループ、転移後も元気で活躍されている患者の方々からお話を伺うこと等によって、次第に、私の再発や転移についての考え方も変わり、今では、かなり冷静に現実を受け入れることができるようになりました。
そもそも自分に再発や転移が起きるかどうか、そしてそれがいつ起きるかどうかは、医師ですらわからないのに、患者の私がくよくよ悩んで、今という貴重な時間を無駄にするのは、もったいないと考えられるようになりました。
医師をはじめ、家族や友人、その他多くの方々のサポートがあって救っていただいたありがたい命なのですから、残りの人生を、女性としての誇りや自信を持ち、美しく、堂々と、そして楽しく生きていく方が、絶対良いと考えるようになりました。

結果として、私は、自分が乳がんになったことによって、失ったものよりも多くのものを得たと感じています。乳がんにならなければ、知り得なかった多くのことにも気づくことができました。
中国の故事に「人間万事塞翁が馬」という言葉があります。幸福や不幸は予想のしようのないという意味です。Inscrutable are the ways of heaven; fortune is unpredictable and changeable.( Weblio辞書より引用) 私は、乳がんになって良かったとは、やはり思えませんが、今回の経験で、自分の残りの人生と、生き方について考え直し、またその軌道修正を行うという機会を得ることができたのだと前向きに考えたいと思います。

そして、私には、明日が待っています。がんになってしまった原因や、辛かった闘病生活のこと等は、もう過去の話。後ろは振り向かないようにしたいと思います。