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“I am Too Young to Get Breast Cancer!”
     「乳がんになるには私はまだ若すぎる    2011年12月

Patient Story・ 患者ストーリー(第1弾)
Ms. Tomomi Arikawa・有川智美サン
Story Editor at ABC News 20/20・アメリカABC 放送20/20 番組編集局員)

31才で有川智美サンは祖母、母そして自分へと受け継がれた病気に向き合うことになった。これは有川智美サンが勇気を持って乳がん経験を公表するにあたっての彼女の挑んだ素晴らしい記録です。

アメリカ月刊誌House Keeping でのインタビュー 


昨年2010年9月2日、有川智美サンは2時の超音波検査の為にオフィスを後にした。検診クリニックは彼女の勤務するABCニュースからすぐ近くだった。
智美サンはアメリカのメジャーネットワークの人気報道番組の20/20で番組構成の仕事を受け持っている。その日は単なる検診で、それ程の時間を要するとは思わず、仕事にすぐに戻れると思ってオフィスを出たのだった。
右の乳房にいつもと違う水風船の様な柔らかい筋肉の塊を感じ、彼女の婦人科医が念の為にと薦めた検診だった。乳がん独特の硬い小さなビー玉の様なしこりや腫瘍の様な感触とは異なっていたので、彼女はさして心配はしていなかった。それにまだ若い。深刻な状態の病気になるわけがないと信じ、検診中も仕事のことについて思いをめぐらせていた。
彼女にとって始めての超音波の検査で、検査技師が乳房の上をコテの様な道具を使って動いているのを感じながら静かに横たわっていた。検査技師の息づかいが高くなっているのを肌から感じたと智美サンはその時のことを覚えている。技師は智美サンの顔を見て「これはいつもする事ですが、放射線医を呼んできます。放射線医師も同じことを繰り返します」と言った。智美サンは「普通のこと。もう一度同じ検査を放射線医がすることが普通のこと?」
なぜ繰り返しが必要なのかと思いをめぐらせたが、放射線医はすぐに部屋に入ってきて道具を動かし始め、ある箇所を特に丁寧に調べ始めた。
「正直に言います」と放射線医は言い、結果が思わしくないことを智美サンに告げた。
この状況から判断して、智美サンは彼女の母親や祖母の様に自分が乳がんであることを悟ったのだった。そしてまるで大きな岩が頭の上に落ちて来たように愕然とした。
いつかは乳がんになる可能性はあるかもしれないという気持ちはどこかにあったが、まさか31歳の若さでなるとは夢にも思っていなかった。祖母の静サンは60代、母の啓子サンがはじめて乳がんと診断されたのは48歳だった。
組織検査の結果を至急手配し、医師は智美サンを個室に移した。
その時はじめて智美サンは両親に電話をかけた。涙があふれ出た。
「心配しないで。すぐに行くから住所を教えて」母親は智美サンに尋ねた。
住所? 智美サンは動転していたせいか自分がどこにいるのかもわからなくなり、泣きながら住所を教えてくれる人を捜しに廊下に出た。
部屋に戻って智美サンは母親のことを考えた。どんなに悲しむことだろう。

「私の両親は私が生まれる4年前に最初の男の子を死産で失っていて、両親の自分への望みは健康で幸福に成長することでした」
さらに智美サンはその時27歳の妹の美幸サンの健康にも思いを馳せた。
「まさか彼女までがんになる様なことはないだろうか」

組織検査では放射線医師は5つの組織を針で摘出した。 そして医師は智美サンを安心させるために、たとえどのような結果であれ治療は可能であることを説明したが、その言葉は智美サンの胸に届かなかった。
看護士が啓子サン(母親)を伴って部屋に入ってきた。
「生まれて初めて見る母親の顔でした。極度の心配、そして自責心と恐怖の
険しい表情でした。」とその時のことを智美サンは思い出して言う。
「あの時がすべてのはじまりで、少なくともそれから二ヶ月以上、母が笑うということはなかったと思います。」翌日検査結果で腫瘍が悪性であることが家族に告げられた。さらにに悪いことにがんは2cm(ぶどう大)で、智美が筋肉痛と感じていた様に皮膚に達していた。

乳がんは毎年200,000人のアメリカ人女性を襲い、40歳以下は7%程度である。そして智美サンの様な家族制の乳がんのケースは5%~10%といわれている。ただ驚くことに啓子サンもまた智美サンもその後に受けた遺伝子検査(BRCA 1 breast cancer susceptibility gene 1 and BRCA 2 mutations)ではネガティブという結果であった。この遺伝子の結果がポジティブであると、一生の内に乳がんにかかる確立が80%というハイリスクとなる。(祖母の静サンは検査をする機会なく、2008年にアルツハイマーで亡くなっている)

「がん経験者ということに束縛されず、自分の将来のことを考え、未来を築いていきたい」

突然変異の場合は希少で1000人に一人位であるが、日系アメリカ人の有川家の様なケースはもっと稀になってくる。普通アジア系アメリカ人の乳がん
発生率は他の異民族民に比べると低い。
ただ乳がん専門医は智美サンの家族の様に遺伝子検査ではネガティブであるにもかかわらず、同じ病気が代々続くケースに常時接している。
遺伝子検査の中でまだ判明出来ていない他の遺伝子要素があるのかもしれない。
「BRCA 1とBRCA 2が15年以上前に発見された時、BRCA 3やBRCA 4など他の遺伝子のこともすぐに判明出来ると期待されていましたが、未だにわかっていません」と智美サンの外科医でありニューヨーク州Mount Sinai Medical Center, the Dubin Breast Centerの理事長の一人であるDr. Elisa R. Port, M.D.は言う。この様に現在判明されている乳がんの遺伝子要素の検査に
対してネガティブであっても、この乳がんには遺伝性ではないとは言い切れない。
「智美サンの様なケースはもしかしたら違った遺伝子の突然変異によるものかもしれないが、今の医学ではまだ検査で判明することは出来ません。」とDr. Portは説明した。

BRCA遺伝子検査でポジティブであると判断された女性のほとんどは予防の為に両方の乳房を全摘、一番強い抗癌剤治療、そして卵保存を強要される。現在の遺伝子検査では母親も自分自身もネガティブではあったものの、原因がわからない現状の中、実際に三代続いた病気に対して、智美サンとその家族は極めて困難な決断をしなくてはならないことに直面した。

腫瘍が悪性であると告知を受けた日、智美サンは妹と共に両親のマンハッタンのアパートに集まり家族で過ごした。啓子サンは家族の好きな料理を作ったが、皆食事すら出来る雰囲気ではなかったと智美サンはその日のことを思い出す。家族がそれぞれの思いにとらわれていた。智美サンは、両親が子供の将来、果たしてこの子は良き人生の伴侶にめぐり合うことが出来るのだろうかという様な不安にもかられていたに違いないと思い出す。智美サンはショックと悲しみの中からも、前向きにどうこれから生きていくかということに集中する努力をした。しばらくはすべてのことが滞り、
時間が必要だが、がんを切除し、治療をすませて元気になったら、(そうなると確信していた)元の生活通り、若きニュース編集者としてABC放送の為に一生懸命働き、取材旅行をしたり、仕事の後のカクテルを友達と楽しんだり、デートをしたり。。。

常に前向きですべてに積極的、そして率直に物を言う性格。(「家族からは言い過ぎると注意されますが」と智美サン)すぐに友達、会社関係、同僚、親戚に自分の病気のことをイーメイルで知らせた。
「家族の中で常にヒロインでいたい智美ががんになりました。家族がさぞかし私に手を焼いていることがおわかりだと思います!? 大変!」

病気の発生が代々若くなっていることを考慮に入れ、智美サンは自分に合った治療法を徹底的に調べて、強く挑んでいきたいと思った。
それから数週間数名の乳腺外科医と面接をした。一人の外科医は乳首を残すことを薦め、ヌードビーチに行ってもわからないくらい綺麗になるという話もしてくれたが、彼女はそれらを選ばなかった。
「私は“がん”をすべて取り去ってくれれば良かった」
「ヌードビーチにはどちらにしても行かないしね!」

Mount SinaiのDr. Portとはじめて会った日すぐに意気投合し、「この人にお願いしたい」と智美さんは思ったと言う。「Dr. Portは、飾り言葉なく、患者と向き合って正直に話してくれる人です。自信に満ちていましたが、あたたかい思いやりが伝わって来ました」
「彼女は“私達はこれから一緒に頑張っていきましょう”という姿勢で、
私がこれからがんとの戦いに挑むにあたり、この先生に一緒に戦場にいて欲しいと思いました」

智美サンには部分摘出の選択もあったが、片方のみの全摘手術を受けることに決めた。両方を一度に摘出することは決断が出来なかった。Dr. Portからは、もし遺伝子検査の結果がポジティブだった場合は予防の為に今回両方の乳房を全摘することを薦めると言われていた。ただしDr. Portは智美サンにすぐに卵保存専門医に会うことを薦めた。強い抗癌剤治療は時にして生殖機能に影響を与えることがあるからだ。
智美サンと同じくABC放送にかつて働いていて27歳で乳がんになった友人からも卵保存を薦められた時、智美はその提案を受け入れることが出来なかった。
「今がんと告知されたばかりでそのことで頭が一杯な時に、子供のことなど
考えられない」と思った。それに二人とは違う自分の立場もあった。
「私の祖母も母も子供を生む時に勿論がんのことなど考えもしなかったはずです。誰のせいでもありません。でも私は自分の子供に同じ運命を背負わせるかもしれないということがわかり、それが私が躊躇した理由です」
しかしDr. Portは「智美、貴女の子供が20歳に成長する頃には、もっと
医学は発達し、さらにすぐれた治療法が出来ているわよ」と励ました。
それに智美サンが妊娠するにしても、まだ5年は先になることを説明した。
智美サンの乳がんはエストロゲンポジティブというタイプのがんで、再発を50%軽減するタモクシフィンという薬を5年飲まなくてはならない。智美サンは納得し、手術後ホルモン治療を一回する事により、卵を保存することが出来た。

10月5日、智美サンと家族は手術の為Mount Sinai病院に向かった。
手術は午後3時から始まり、2時間半程で麻酔からさめた智美サンは驚くほど元気で平安な気持ちで安堵した。「もう終ったのですか?有難うございました。」とDr. Portそして同時再建手術を受け持ってくれた整形外科医のDr. Adam Kolker, M.D.に挨拶をした。
そして良い知らせがあった。手術中に調べたリンパ腺の中のがん細胞検査ではリンパにはがん細部は発見されなかったという報告だった。

美幸サンは姉の智美サンからひとときも離れなかった。特に手術当日は病室に泊まり、一晩中寝ずに付き添って看病した。二人が好きな”The Blind Side”の主題歌 “Chances”など音楽をI-Podで一緒に聞いた。智美サンの友人達、会社、同僚、親戚から次から次に届くメッセージや電話、イーメイルに答え、一人一人に感謝の返事をして智美サンの様子を知らせた。美幸サンは智美サンを勇気付けるために「私が貴女の秘書をするのは今回だけだからね。ずっと続くと思ったら大間違いよ。」と笑って冗談を言った。

智美サンは勿論ヌードビーチに行くつもりはなかったが、それでも全摘手術の後の傷跡のことは気になっていた。全摘手術と同時再建手術を行ったが、その時は整形外科医は皮膚の下に組織を広げる一時的な物を詰めている。数ヶ月して皮膚が落ち着いたところでインプラントが最終的に入り、出来上がることになる。手術直後は仕上がりの形ではないのはわかっていたが、退院したら自分一人で最初に見てみようと決めていた。「驚き悲しむにしても、皆の前で動揺したくないので、自分一人でまず見てみようと計画していました』翌日Dr. Kolkerがガーゼの交換をしながら「見てご覧なさい。出来栄えをどう思う?」と突然笑顔で聞いてくれた。智美サンは一瞬躊躇しながら、思い切って自分の胸を見た。
「悲しいとも寂しいとも感じませんでした。勿論乳首はまだついていないのですが、本当に素晴らしいと思いました。」「それは想像以上に綺麗で、とても気に入りました。大きすぎず小さすぎず自然でした」

最悪の状態は一応終わり、一段落ついたと安堵し、家族全員で術後一週間目のDr. Portのアポイントメントに出かけた。ドクターの大きな机の前に座ると、ドクターから手術中に摘出して調べたリンパ腺のひとつの中からがんが微量発見されたと告げられた。それはがん細胞が乳房から転移したということになる。智美サンの乳がんはステージIIB、5年生存率81%というカテゴリーになった。(リンパへの転移がない場合の5年生存率は90%)
必ずしも皆しなくてはいけないという手術ではないが、Dr. Portは智美サンに右の脇から残りのリンパを取り除く手術を薦めた。「宜しくお願いします」智美は即答した。いつもの様に敏速に断固とした決断だったが、涙がこぼれ出るのを抑えるのに必死だった。
父親の大きな溜息と母親のまさに泣き叫びそうな表情、妹の動揺が手に取る様にわかり、「私がしっかりしなくわ」と思ったその時のことを今でも思い出す。

その晩智美サンは一睡も出来なかった。最初のがん告知の時よりも今日の
リンパ腺転移の告知の方がショックが大きかった。
「この時はじめて、私はこのがんで死ぬかもしれないのだと思いました」

この暗い不安定な精神状態の中で、彼女は自分の将来のことを考えずには
いられなかった。彼女はこの心痛を取り除くため精神科医をはじめて訪れた。
「彼女は私が今何を考えるべかを導いてくれました。例えば将来子供を持つことが自分にとってどれほど重要か否かなど。かなり頭の中が整理出来、
心の安らぎを得ることが出来る様になりました。」

二度目の手術は順調にすみ、6週間後には29個の卵を保存することが出来た。
手術の為に休暇を取っていた仕事にも12月から復職した。
しかしその後さらなる厳しさが待っていた。それは4ヶ月に及ぶ化学療法の
抗癌剤治療(キモセラピー)だった。時にはあまりの吐き気と気分の悪さにトイレの床から立ち上がれないこともあった。美幸サンは常にドアのところで待機して傍にいた。免疫力を高める為の注射は智美の骨や筋肉に痛みをもたらし、間違って触れただけでも激痛が走った。「家族にとって私のその様な苦しむ姿を見るのは耐え難いものだったと思います。何か助けて上げたいと思いながらも何も出来ないという辛い思だったと思います。」

「本当に辛かったです」妹の美幸サンはその時のことを述壊する。
「この厳しい治療が彼女の楽観的な性格すらも変えてしまうのではないかと心配しました。」
「智美は常に何事においても前向きで明るい性格の持ち主で、この度の病気、手術も一貫してその姿勢を崩すことなく、まわりにも気を使って明るく振る舞っていました」
「ただこの抗癌剤治療の体験が、彼女の外見も性格も変えてしまうのではないかと思うほど、智美は辛そうで沈んでいました。」

2011年3月末、ついにこの治療がすべて終了した。
智美サンは母親の顔に安堵の表情を垣間見た。「心配の極限の母親の暗い表情はなくなっていました。」
しかし啓子サンは自身がニ度におよぶ乳がん経験者として、このエネルギッシュで行動的な娘が、がんサバイバーとして生きていかねばならないこれからの人生を考え、それがいかに困難なことかを心配せざるを得なかった。「お医者様はもうがんは完治しました。もうすべて終りました。とおっしゃって下さいます。でも実際は違うのです。終っていないのです」

智美サンは平常な生活に戻ることが一番だと思い、それに専念することにした。「デートをする時、相手に何ていえばわかってもらえるだろうか。男性にこの私が経験した成り行きなど理解してもらえるのだろうか。など心配してもきりがないことは考えないことにしよう。」
「がん経験者ということに束縛されずに、自分の将来を考え、未来を築いていきたいと思います。」と智美サンは言う。

彼女が代表をしている日本女性の為の乳がんサポートグループの仲間からも
同じ様な意見を聞いているが、「それは極めて当然のことと思うけれど、でも実際は」と啓子サンが付け加える。
「大丈夫よ。私のことを擁護してくれなくてもわかっているから」と智美サンは笑った。啓子サンもそれに対して笑顔で応じた。母娘の二人は違った性格の持ち主かもしれないが、彼らの間には強い愛情の絆で結ばれていることが伝わってくる。

智美サンの中で心境の変化があった。乳がんの家系の可能性のある中、この遺伝を子供に残す不安が彼女の心に影を落としていた。しかし,智美サンは、乳がんを経験して、それが保存した卵からか自然あるいは養子縁組からであろうが、将来の自分の子供についての考えが変わってきているのを感じている。

「家族や友達だけでなく、私が今まで知らなかった方々まで、本当に多くの人びとから今回励ましや助けを頂き、そのお陰で乳がんの治療を乗り越えてくることが出来ました。もしいつか私が新しい命をこの世に授かり、その命が今回私が経験した同じ愛と喜び、幸せを経験することが出来たら、その子は本当に幸福者だと思うのです」

乳がん遺伝子検査は特許で独占されていて良いのだろうか?

三代続いた家族制乳がんということで智美サンは、BRCA1とBACA2の乳がん遺伝子検査を受けるように医師から薦められた。
The University of Utah Research Foundation がこの遺伝子検査の特許を持ち、Myriad Genetics of Salt Lake City 研究所が実際にテストをするライセンスを
独占している。テストは$3,000以上かかり、BART(もっと大きなスケールで、他の細胞のアレンジを試みることにより乳がん遺伝子細胞の検出を図る遺伝子検査)は希望により特別に行われるが、$500~$700かかる。
智美サンの場合はすべての検査がネガティブであったが、BART以外の費用は保険がカバーしてくれた。
高額の検査料ではあるが、Myriadの独占ということで、ここでの検査結果
以外に誰もセカンドオピニオンを確認することが出来ないということになる。多くの医療研究者からMyriadの独占は乳がんの遺伝子検査研究の妨げになるという抗議が出ているが、会社側はそれに対して反論している。
コロンビア大学遺伝子学のディレクターであるWendy Chung, M.D., Ph.D.は
American Civil Liberties Union(アメリカ市自由連盟)とPublic Patent Foundation (公的特許財団)から検査の独占に対してMyriad(検査会社)が起訴された時も、「彼らは莫大な資料と情報を持っています。彼らの提供するそれら遺伝子の情報は社会で賢く問題を解明しなければなりません」と弁明している。
2010年3月、地方裁判での判断は、DNADNA基配列に関することは特許にすべきではないと提訴に勝利した。しかしMyriadはそれを上告し、2010年7月29日、米連邦高裁の裁判において、2対1でMyriadが勝訴した。
次のステップは誰にもわからないのが、このケースが最高裁判所まで持ち込まれる可能性は充分ありえる。